先日ブチギレた宮下奈都「太陽のパスタ、豆のスープ」のあと、13冊挟んで長嶋有「ねたあとに」と「もう生まれたくない」を続けて読んだ。
「ねたあとに」は最高に大好きだった。都会のうだるような暑さから逃れた大人がこぞって真剣に遊ぶ。遊ぶこと(面白さを評価されること)に緊張する若い女の子の感情もしっかり拾い上げていて誰も置いてきぼりにしない。登場人物が一人一人とってもチャーミング。長嶋有を久々に読んだけど、らしいなあとしみじみ楽しめた。
こりゃあいいと調子が出たので、続けて「もう生まれたくない」を読んだ。こちらは群像劇で、登場人物を把握できたらこっちのもの。楽しく読んでいたのだけど。
「もう生まれたくない」は日常に紛れている死で繋がるお話だ。だからというわけではないけど、終盤で非常勤講師が手を出していた女学生に撲殺されるシーンがある。
撲殺はさすがに、日常じゃないですよ。それは私もわかってます。日常の中の「一目惚れ」は全く許せなくてブチギレたのに、どうして他殺は許せたんだろう。
一応、一目惚れと違って他殺フラグは立っていたと思う。殺した女学生は全身ヴィヴィアン・ウエストウッドという、いかにもな地雷感を醸し出している。(この話が2011〜2012年だったからヴィヴィアンだったのであって、2020年代の話だったらマイメロがカバンからぶら下がっていたに違いない。知らんけど)リスカはないけど2011年にして整形しまくっていて、男子学生に「あの子はやばい気がする」と嗅覚を働かせる彼女。
とはいえ、流石に殺されはしないでしょと私は思っていた。でも、殺されてしまった。
そんなもんなのかもしれない。日常の続きで殺されるときってこんなものなのかもしれないと思わせる説得力が長嶋有にはあるような気がした。
何度も登場していたゴルフクラブで、っていうのは流石にまあフィクションならではとは思うけど(ここは笑うポイントだと思ったのでちょっと笑ってしまった)、一目惚れのときみたいな激怒は全くなくて。そうきたか、と素直に思えた。これは贔屓目なのかなあ。
日常を描いた小説の中での一目惚れを許せないのは私がめちゃくちゃモテない女だからだ、というのはまあ事実だから受け入れるんだけども、小説の中の一目惚れはやっぱりずるいと思うんだよね。夢オチ以上にひどいと思う。何の脈絡もなく現れる救済じゃん。もちろん、一目惚れしてきた相手がやべえやつだったら救済ではなくて地獄かもしれないけど、「太陽のパスタ、〜」ではそうじゃなかったじゃん。明らかに希望の光チックに描かれてるじゃん。
それに対して他殺というのはなんかちょっと面白くすらある。殺されたのは自業自得とまでは流石に言えないけど、不穏な空気を感じ取れなかった浅はかな非常勤講師に責はなくない。殺される時の音の伏線を回収されるとは思っていなかったけど、せっかくだから(?)回収するよね。
これが好き嫌いなのだろうなと思った。
楠木建さん(この人も大好き)の「全ては好き嫌いから始まる」を読んだ後だから、余計にそう思う。
私も好き嫌い族だ。音楽が好き、でも全ての音楽が好きってわけじゃない。キリンジは大好きだけどキセルはそうでもない。小説が好き、でもミステリーは全然惹かれない(もちろん面白いものもあるよ!)。
私は長嶋有を大好きなんだな、と思った。知ってたけど、改めて実感した。いろいろ読んで初めて気付けることだ。
私が長嶋有さんを大好きで信頼しているのは、一目惚れみたいな裏切り(と私は感じた)を挟まないからだ。他殺はいいのよ、フラグは回収するためにある。贔屓目でいいのよ、好き嫌い族だから。
何も起こらない日常と、普通は言語化されないささやかな感情を拾い上げてくれる長嶋有が大好きなんだと改めて思った。
読書にはいろいろな目的があると思うのだけど、私はこういう本を読みたくて読んでるんだなあと思った。感動とか驚きとかもいいけれど、ただの日常(に紛れ込むささやかな何か)こそを読みたい。
これは読書メーターに残した「もう生まれたくない」の感想。
好きなものを知ることは幸せへの近道だ。
これからも好きなものとたくさん出会う人生にしたい。