never let me go

ちなヤク精神科医の読書日記

【感想】レジー「ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち」〜ファスト教養で得られるものとは?

 

私も教養がほしいと思って一時期百人一首を必死で覚えたことがあった。

言い訳すると理系だし、アメリカ育ちだし、高校の古典のテストで毎回25首がテスト範囲だったけど不真面目すぎて全然覚えなかったし……ということで、この本を買ってこつこつ覚えていたのは10年(!)くらい前。

決まり字でその短歌を言えるように覚えていたのだけど、ちゃんと覚えたって言えたのは結局50首くらい。最後の30首くらいは多分意味すら記憶にないと思う。

 

というわけで、教養は自分のものにするのに時間がかかる、というのが感想。

ファストと教養というのはそもそも相反するものなんじゃないか。

この本、すごく面白かったけど、ファスト教養の歴史と、どういう気持ちで若者たちがそれに食いついたかということが中心で、『教養の実際の活かしかた』についてはさほど論じられていない。

 

最初の方で、フリッパーズギターを知っていたことで就活でうまくいくシーンを挙げられていた。もしオザケン小山田圭吾のことをファスト教養的に学んでいたとしたら、果たして得た知識をその面接で活かせたかというと疑問だと思う。

 

10分で答えがほしい、学ぶ時間はない。そうだよね。でも、10分で学んだことって自分の中に残るかな?わたしは残らないと思う。百人一首をたとえば100分で解説してもらったとして、どれだけ覚えていられるか、どれだけ日常生活で『教養』として活かすことができるか。

無理じゃない? 活かすのが無理ってことは、その10分は無駄だったんじゃないか。

 

タイパという言葉や、動画を倍速で見ること。それってかえって時間を無駄にしているんじゃないかと思うんですよね。

だって、記憶に残らなければ、感情が動かなければ、それは『使える教養』にはならないでしょう。

 

たとえば、私はオタク文化が大好きで、古くはモーニング娘。のオタク(モーヲタ)のテキストサイトを読むのが大好きだった。

モーニング娘。の最盛期とインターネットの黎明期が重なっていたこと。さらに、個人的には私が専門に上がる前の大学生で暇だったこと。毎日更新されるオタクの熱量が本当に楽しくて大好きだった*1

そこから発展して、地下アイドルを推してる人のツイッターに行き着いた。独特の文化と変わらないオタクの熱量が興味深くて趣味で見守ってた。

精神科にはいろんな患者さんが受診する。オタクも多い。若い患者さんだと趣味の話が心を開いてくれるきっかけになったりする。それまで涙ばかりだった患者さんが笑顔を見せてくれたりする。

活かすつもりは全くなかった。でも、結果的に趣味が役立った。オタク(を見守るのが好きなオタク)でよかったなあと思う。

 

私はどれだけ百人一首に時間をかけても何も残らず、隙間時間に見かけたアイドルグループの話の方が頭に残って、仕事に活きている。

 

結論が「好きなことをしよう、それなら続けられる」というのは、記憶に残るから・感情が動くからなんじゃないか。

今年に入って36冊くらい読んでいて(ray - 読書メーター)、その全てに一応感想を残してはいるのだけど、『教養』的に使えるくらい自分の中に残っているものがどれだけあるかというと本当に数冊といったところだろう。

 

読んだ事実、内容を聞き齧っていることを『教養』と呼ぶならでファストでいいのかもしれないけど、『使える教養』となると難しいものだ。10分でもらった答えで『教養』になるとはとても思えない。その辺りをもう少し論じてほしかったなと思った。

*1:今でもハロオタウォッチはしてる。好きなものを語ってる人を見るのが大好き。今はゆめりあいを推してる人をよく見ちゃう

どうして「他殺」は許せて「一目惚れ」は許せないのか? 【感想】長嶋有「もう生まれたくない」

 

先日ブチギレた宮下奈都「太陽のパスタ、豆のスープ」のあと、13冊挟んで長嶋有「ねたあとに」と「もう生まれたくない」を続けて読んだ。

 

loxonin.hatenablog.jp

 

 

「ねたあとに」は最高に大好きだった。都会のうだるような暑さから逃れた大人がこぞって真剣に遊ぶ。遊ぶこと(面白さを評価されること)に緊張する若い女の子の感情もしっかり拾い上げていて誰も置いてきぼりにしない。登場人物が一人一人とってもチャーミング。長嶋有を久々に読んだけど、らしいなあとしみじみ楽しめた。

 

こりゃあいいと調子が出たので、続けて「もう生まれたくない」を読んだ。こちらは群像劇で、登場人物を把握できたらこっちのもの。楽しく読んでいたのだけど。

「もう生まれたくない」は日常に紛れている死で繋がるお話だ。だからというわけではないけど、終盤で非常勤講師が手を出していた女学生に撲殺されるシーンがある。

撲殺はさすがに、日常じゃないですよ。それは私もわかってます。日常の中の「一目惚れ」は全く許せなくてブチギレたのに、どうして他殺は許せたんだろう。

 

一応、一目惚れと違って他殺フラグは立っていたと思う。殺した女学生は全身ヴィヴィアン・ウエストウッドという、いかにもな地雷感を醸し出している。(この話が2011〜2012年だったからヴィヴィアンだったのであって、2020年代の話だったらマイメロがカバンからぶら下がっていたに違いない。知らんけど)リスカはないけど2011年にして整形しまくっていて、男子学生に「あの子はやばい気がする」と嗅覚を働かせる彼女。

とはいえ、流石に殺されはしないでしょと私は思っていた。でも、殺されてしまった。

そんなもんなのかもしれない。日常の続きで殺されるときってこんなものなのかもしれないと思わせる説得力が長嶋有にはあるような気がした。

何度も登場していたゴルフクラブで、っていうのは流石にまあフィクションならではとは思うけど(ここは笑うポイントだと思ったのでちょっと笑ってしまった)、一目惚れのときみたいな激怒は全くなくて。そうきたか、と素直に思えた。これは贔屓目なのかなあ。

 

日常を描いた小説の中での一目惚れを許せないのは私がめちゃくちゃモテない女だからだ、というのはまあ事実だから受け入れるんだけども、小説の中の一目惚れはやっぱりずるいと思うんだよね。夢オチ以上にひどいと思う。何の脈絡もなく現れる救済じゃん。もちろん、一目惚れしてきた相手がやべえやつだったら救済ではなくて地獄かもしれないけど、「太陽のパスタ、〜」ではそうじゃなかったじゃん。明らかに希望の光チックに描かれてるじゃん。

それに対して他殺というのはなんかちょっと面白くすらある。殺されたのは自業自得とまでは流石に言えないけど、不穏な空気を感じ取れなかった浅はかな非常勤講師に責はなくない。殺される時の音の伏線を回収されるとは思っていなかったけど、せっかくだから(?)回収するよね。

 

これが好き嫌いなのだろうなと思った。

楠木建さん(この人も大好き)の「全ては好き嫌いから始まる」を読んだ後だから、余計にそう思う。

私も好き嫌い族だ。音楽が好き、でも全ての音楽が好きってわけじゃない。キリンジは大好きだけどキセルはそうでもない。小説が好き、でもミステリーは全然惹かれない(もちろん面白いものもあるよ!)。

私は長嶋有を大好きなんだな、と思った。知ってたけど、改めて実感した。いろいろ読んで初めて気付けることだ。

 

私が長嶋有さんを大好きで信頼しているのは、一目惚れみたいな裏切り(と私は感じた)を挟まないからだ。他殺はいいのよ、フラグは回収するためにある。贔屓目でいいのよ、好き嫌い族だから。

何も起こらない日常と、普通は言語化されないささやかな感情を拾い上げてくれる長嶋有が大好きなんだと改めて思った。

 

読書にはいろいろな目的があると思うのだけど、私はこういう本を読みたくて読んでるんだなあと思った。感動とか驚きとかもいいけれど、ただの日常(に紛れ込むささやかな何か)こそを読みたい。

これは読書メーターに残した「もう生まれたくない」の感想。

 

好きなものを知ることは幸せへの近道だ。

これからも好きなものとたくさん出会う人生にしたい。

 

 

 

【感想】中村文則「何もかも憂鬱な夜に」

 

 読み終わったのは水曜日2月1日。

 中学の卒業式の恩師との件で涙が出て、読み終わったあとさめざめと泣いた。本屋さんへ向かう途中、横断歩道を歩きながらまた泣いた。

 主人公の衝動、真下の混乱。程度こそここまでではなかったけど、どちらも身に覚えのあるものだ。

 私には山井の気持ちを「わかる」ということはできない。だけど、彼の境遇を知り、彼自身に寄り添うことはできるんじゃないかと思う。わたしが診療を通して患者さんたちにやってこようとしてきたことを、主人公は山井にしている。

 強く肯定してもらえたと思った。作者の中村さんは山井ではないし、精神科患者でもないし、わたしが肯定してもらえたと思うのはお門違いとも思うけれど、でも、ものすごく救われた。山井よりもわたしが救われた。

 

 奇しくも、わたしも似たようなことを患者さんに言われたばかりなのであった。

「先生がわたしのお姉ちゃんだったらよかったのに」

 主人公の『弟』のことがあってこその山井の言葉ではあるのだけど、自分のことにリンクして心が震えた。

 兄弟だったらよかったのに、と言われて単純には喜べない。そう思ってもらえたことに喜びを感じたところで現実は違う。兄弟ではない。現実は苦しいままだ。

 だけど、そういう存在がいるだけで本人がほんの少しでも楽になってくれるのなら、と祈るしかない。

 精神科医は祈る仕事だなと思う。周囲がどれだけ助言しようとサポートしようと、最後は本人が選び、生きていく。無力感に襲われることも少なくない。「何もかも憂鬱な夜」を過ごす日もある。そんな自分を鮮やかに救ってくれた一冊になった。

 

 

 読書メーターに感想を書いてから他の人たちの感想を読むのが読了後の楽しみなのだけど、今回は本当にびっくりした。

 この話の主人公や真下が思うことは思春期を通過したことのある人なら誰しもが経験しているものだと思ってた。「難しい」「読みにくい」……嘘でしょ? 真下のノートなんか、わたしが書いたものかと思うくらいだったよ。きっと誰もが共感性羞恥で死ぬところだと思ったのに、そうでもないんだ……

 改めて、人間の多様性について考える。感受性がこれだけ違うのだから、わかりあえなくて当然だよなというごくごく当たり前のことを確認する。

 だからこそ、星の数ほどある小説の中でこの話に出会えたことを感謝したい。この話に涙できる自分でよかったとも思いたい。

 これからも仕事を頑張ろうと思う。

 

 

【感想】 宮下奈都「太陽のパスタ、豆のスープ」

 2023年1月29日に読了。
 読み終わってやれやれ寝るかと思ったけど、寝る前に感想書いておこうと思って読書メーターに残したのはこちら。

あすわは私の仲間だと思ってたのに、一目惚れの件であっさりと裏切られた。傷ついて再生の日々を送っている最中に一目惚れしてくれる人が現れたら誰だって楽しい気持ちになるよとひと通りぷりぷりした後で、この話はおとぎ話なのだと気付いた。だってロッカさんは妖精だもの。京も郁ちゃんも、みんなみんな妖精だ。これは限りなくリアルなおとぎ話だった。
何にしたって、私は私のパンを見つけなきゃいけない。はーー、生きるって大変だ。でも、きっと自分だけのパンを撫でるのは幸せなことだから。そう信じて明日もパンを探すのだろう。

 わたし、読書メーターの感想は『できるだけ完結に』と決めて始めたんだけど、もうさ、止まらなかったよね。5冊目にして早速文字数上限まで書いたよ。

 逆に言うと、わたしはそれだけ感情移入しながら読んでいたのだ。
 勝間和代さんのホットクックレシピをちょこちょこ試しているわたしは豆がちょっとしたブームだ。豆ごはん、蒸し豆のサラダ。いつか読もうと思っていた宮下奈都さんの棚で『豆』の文字を見かけて手に取った本だった。裏のあらすじを見かけて、「あーこれはわたしの本かもしれぬ」と思って、「羊と鋼の森」と一緒にレジに持っていったのである。

 一目惚れまでは楽しく読んだよ。ロッカさんはフェアリーだなあと思いながら楽しく読んだよ。でも、一目惚れのくだりがでてきた時点で一旦本を閉じた。
 だって、普通に生きていて一目惚れはされないもん。読書メーターで見かけた「リアルな」って感想を書いてる人たち、日常的に一目惚れされてるの???マジで?????どこの世界線の方ですか??????

 とまあ妬みはさておいて。
 かつてのわたしは好きな作家に長嶋有さんを挙げていた。あれくらい何もない感じがいいんだなって改めて思った。
 だってさ、わたしは傷ついたからこそこの小説を読もうと思ったわけで。豆に惹かれてこの小説を手に取って、裏のあらすじ見て「わたしの本かもしれない」と高揚した気分でレジに持っていったのに。
 
 この裏切られ方、あまりにもあんまりじゃない?
 失恋の薬は新しい恋だ、みたいなのは食傷気味というかマジで食傷してるんで、そこまで至らなかったことにはほっとしてるけれども、正直同じくらいおいてきぼりを食らった気分だよ。
 29日のわたしが寝る前に書いたように、『傷ついて再生の日々を送っている最中に一目惚れしてくれる人が現れたら誰だって楽しい気持ちになるよ』。そうじゃないから苦しんでるんだよ。なんで一人だけ先にいくの? 明日じゃない、今日羽ばたいてるじゃん。わたしだって今日羽ばたきたいよ!!!今日だれか一目惚れしてくれ!!!(?)

 わたしがひねくれすぎてるんだろうなあというのは認める。認めるけど、一目惚れと若い子が病気で死ぬのと夢オチは同じくらいわたしは嫌いなんだなということがわかった。嫌いなものの並びを見て自分にウケている。偏読がすごい。


 あすわにおいてきぼりを食らったままでいたくはないので、考えることにする。わたしにとってのパンはなんだろう。10年前までは音楽であり、スピッツであり、キリンジだった。カタカナのキリンジは存在しないし、スピッツはかつてほどの鮮やかさでは救ってくれない。
 読書なのかもしれない、とは思う。今こそ、読むべきなのかもしれない。

 わたしは文字を愛している。それはもう、音楽を好きになる前からだ。冬の異国の地、テレビは何を言ってるかわからず、外は雪で出て行けず、何もすることがなくて仕方なく手に取った本。初めは絵本の絵を眺めていただけだったけど、物語を読むようになった。次第に絵はいらないなと思った、文字だけ、文字だけがほしいと、母が買い揃えてくれていた名作全集に手を伸ばした。挿絵が入るとその分読める文字が減るので残念だった。長靴下のピッピでポルトガルの首都はリスボンだって覚えた。とにかくずっと読んでた。
 学校に行って、英語も読めるようになったら英語の本も。小三のときにランチのあとの読書の時間、衝撃が走ったロアルド・ダール。お願いしてあったチャーリーとチョコレート工場だけじゃなくて、マチルダと、魔女たちと、何冊も買ってきてもらえたのが嬉しくて号泣して両親を戸惑わせた。英語の本と比べると日本語の本が貴重すぎて、ヤオハンに行く度に買ってもらえるのが嬉しかった。いつでも日本語の本が買えるシカゴが大好きだった。わたしの読書の原体験。

 わたしは文字を愛してるんだから。もう少し大事に愛せばいいんじゃないか。
 どうすれば妻を愛せるでしょうというのは愚問だと何かのビジネス書で読んだ。愛すると決めたなら、愛するだけなのだ。
 わたしが見向きしなかっただけで、わたしのパンはもうとっくにわたしの手の中にあったんじゃないか。

 あれ? 書いてるうちに気づいたけど、わたし、もしかして全然置いていかれてない??

「趣味:読書」の復権なるか

 

 ここ数年、いや、十数年? 「趣味:読書」と名乗るのが躊躇われる日々だった。

 読みたくないわけじゃない、文字は読みたい。だけど、読みたい文字と出会えない。

 たまに小説に手を伸ばして面白いと思うことはあっても、自分の好みに合わないとすぐにへそを曲げて読むのをやめてしまう。偏食ならぬ偏読なのだ。ものすごい偏読。好きな文体じゃないとすぐに放り出してしまう。

 文字は読みたいから、自己啓発本とかビジネス書とかまとめサイトとかTwitterとかブログとか、まとまった物語ではないものでお茶を濁してきた。ずっと。

 でも、2023年、ちょっと風向きが変わった。面白いと思える小説に立て続けに出会えている。これはひょっとして、ひょっとするのではないか。

 何が変わったのかはわからない。自分の好きな文章を見つけるコツを掴んだのかもしれないし、ただラッキーなだけなのかもしれないけど。

 とりあえず、今年は読もうと思っている。今年の目標は大きく出て100冊。もう1月終わるけど。まだ5冊しか読めてないけど。

 毎月骨のある本を1冊+小説を7,8冊。これで100冊。

 記録すれば達成できるんじゃないかなってことで、読書メーターと合わせて始めてみます。あとはライブの感想なども、流れていってしまうので。

 

 今日は仕事終わりに本屋さんに行きます。楽しみ。

 

 

【 自己紹介 】

・アラフォー/女/精神科医

・好きな小説:カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

・好きなビジネス書:内田和成「スパークする思考」

・好きなバンド:キリンジKing Gnu

・好きな東京ヤクルトスワローズ東京ヤクルトスワローズ

・苦手なもの:映画(これもいつかは克服したい)